なぜ日本人に同胞意識がないのか
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日本人が他国民と異なるのは「同胞」という感覚を持たないことだ。太平洋戦争を例に考えるとわかりやすい。この戦争は日本軍がハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けたことで開戦。アメリカ側は徹底反撃を行い、広島・長崎への原爆投下により街を吹き飛ばし、国全土が壊滅的な被害を被ることで日本は降伏し、敗戦国となった。
この真珠湾攻撃で、アメリカ人たちはみな自分自身の土地が傷つけられたかのように痛みや怒りを共有し、戦争に突き進んだ。「リメンバー・パールハーバー」が国民の合言葉になった。ハワイは本土西海岸からも4000kmも離れている南の島であるのにだ。筆者はハワイに何度も行くが、パールハーバー国立記念館は常に米本土からの観光客で賑わっている。そのほとんどは当時を知らない世代だが、同胞の犠牲を悼む意識は共有され続けているのである。戦後の日米の国民関係は良好だが、いざ現地に来るとアメリカ人の中にある抗日感情の片りんにふれてヒヤリとした気持ちになる。
それに対して、日本人の広島・長崎への意識はどうだろうか。筆者は学生時代の修学旅行が長崎だったのである程度の理解があるが、おそらくほとんどの日本人は原爆投下の日がいつだったかも覚えていないはずだ。広島のイメージが強く、長崎の存在も忘れていることだろう。人類史上はじめて核兵器が都市に投下されたとてつもない出来事だというのに、意識の共有は広島・長崎両県民のみにとどまる。それ以外の国民の間でで原爆に対する深い理解や強い意志を持った人がいたとしたら「反米左翼」くらいではないか。
一方で、「右翼」に意識共有が限られた問題もある。竹島問題がそうだ。韓国が実効支配する島根県の竹島について、地元の島根県では啓発活動が積極的に行われているので、島根県民の間では島を返せと言う意識は広く共有されている。一方で、全国レベルで竹島にいちいち言及するのは、嫌韓のネトウヨや黒塗りバスに乗った右翼団体くらいである。
しかし韓国ではそうではない。筆者は韓国人の友人が多いのでよくわかるのだが、島の帰属する慶尚北道民だけの話ではない。ソウルに住んでいようが釜山にいようが済州島にいようが、全国民が島を守ろうという意識を徹底してる。「独島はわが領土」という歌謡曲もあり、K-POPの人気アイドルグループがリハーサルでこれを歌って日本で物議になったことすらあったほどだ。日本のカルチャーになじんでいる若者だってこの島のことでは一歩も譲らないし、ここでは右翼も左翼も関係ないのである。
K-POPついでに余談を言えば、有名アーティストには韓国系アメリカ人のような移民が多い。本場クオリティの洋楽を会得し、韓国に持ち帰って才能を発揮するわけである。韓国には「在外同胞」という考えがあり、移民やその子孫にも連帯意識がある。だが日本で日系アメリカ人に親しみを感じるひとはいるだろうか。おそらく多くの人は親近感も持たず「アジア系アメリカ人の一種」として他者的にみなすだろう。あるいは故・ダニエル・イノウエ上院議員いよる日系人駐日大使の提案を露骨な民族差別意識で断った元首相のように、ヘイトの対象として切り捨てることさえある。
同胞意識というのは、場所の違いも立場の違いも越えて共有されるものだ。一度原爆に話が戻るが、今の広島市長は職員研修資料に教育勅語を用いることで地元の平和団体から批判が出るほどの右寄りの人だが、それでも平和宣言で核廃絶を訴えるスピーチをしている。島根県民であれば左でも竹島を返せと言う。しかし県外になったとたん、そうした普遍的意味合いが消えてしまい、他国であればごく普通の同胞意識の表れによる主張と認識されることが「思想の強い怪しい言説」に切り替わってしまうのだ。
日本の総理大臣は「県民の奉仕者」
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同胞意識のない日本では、「全体の奉仕者」であるべき首相さえ、疑問符が生じるようになる。岸田文雄首相は広島県出身だが、自身の地元で広島サミットを行った。これは露骨な地元びいきと言われても仕方ないのではないか。
もちろんウクライナのゼレンスキー大統領の広島訪問を実現したことは画期的だったといえる。核攻撃のちらつかされている国のリーダーを、被爆国の象徴的場所に招くことは強いメッセージ性を持つ。一連の軍事侵攻のすべての発端は、10年前のロシアによるクリミア半島編入である。竹島同様の領土問題だったのだ。ゼレンスキー大統領はいまの戦争でクリミア奪還も呼びかけていて、全国民に意識が共有されている。
そのウクライナの敵であるロシアのプーチン大統領と故・安倍晋三元首相は懇意だった。在任中に日露首脳会談を行った場所は山口県。安倍氏の出身地である。このように時のリーダーが重要な外交の場を地元の県に設定することが歴代政権では当たり前になっている。岸田氏も安倍氏も地元では絶大な支持があり、利益を引っ張ることで選挙民も大喜びする。しかしこれらは国家で行う催しなので、当然、会談のセッティングにかかわる費用は県の予算ではなく国のカネで行われる。1つの県の利益に、無関係の46都道府県民が国に納めた税金が使われているというのも事実だ。
安倍政権下ではロシアとの関係を重視した一方で、北方領土問題では2島返還に譲歩した。元外務次官が「国家主権を自ら放棄した歴史上初めての宰相」になるうると非難するほどの出来事だったが、当時は領土問題にうるさいはずの右翼すら対して騒ぐことはなかった。ウクライナの大統領が、ロシアとの関係を穏便にするためにクリミアの半分を割譲しますなんて言ったら、クリミアが地元の人以外でもウクライナ国民は大暴動になるはずだ。北方領土は北海道には重要な課題だが、他の日本人には無関心だったのだ。
主権国家のトップの人間が、自身の出身地をひいきして無関係な土地の利益を毀損するということなど通常はあり得ない。そういうことをした時点で、その政権は持たなくなる。ところがハナから同胞意識なんてない日本では、平然と利益誘導が行われ続けてきた歴史がある。総理大臣輩出地に行くと、田舎の割に実態に見合わない立派なハコモノがやたら市内にあったりする。そうした地域に利益を分配する裏で、後回しにされている土地が必ずある。上越新幹線を引っ張った故・田中角栄元首相だってさんざん問題になった。200万都市の札幌で新幹線が未だ開業していないのに、田舎県の新潟のために1982年に新幹線ができていたのは合理性を考えるとおかしい。
こういう政治の歪んだ構図があると「日本にも大統領が必要だ」と主張する人も必ずいる。首相公選制論者だ。議員内閣制の日本では総理大臣を国民みなが直接選ぶことができず、特定の地域の選挙民が選んだ代議士が首相に選出される。そんなことだから利益誘導がまかり通るのだというものだ。
だが、私はそんなことをしたらもっとおかしくなるとも考える。もし国民が直接選挙で首相を選ぼうとすれば、1億2000万人中4000万人は首都圏に住んでいるので、数の力で東京周辺の利益だけを考える人物が当選するだろう。人口が最多で経済中枢のある東京の利益に政治のリソース全てを割かれ、地方は切り捨てられる。すると不便な地域ほど人々は地元を見限って東京に出るようになる。今以上の一極集中状態になり、国土の大半が荒廃したいびつな国になるのだ。
切り捨てられる地方
財務省が能登を見捨てるような発言をしました。"コスト"の問題だと。
— パティ🐾政治で生活が変わる (@fumi10121012) April 11, 2024
馬鹿にしすぎでしょ
怒りで頭がふらふらする pic.twitter.com/sgsDuD2klR
元日の地震発生から3か月以上経過した能登半島はいまだに崩れた街並みがそのままになっていて復旧活動も進んでいない。これはあまりに遅い。先日の台湾地震では、台湾政府はすみやかに対策チームを立ち上げ、蔡英文総統は一週間で被災地を訪問した。岸田首相が能登を訪れたのは2週間後だった。
国の消極性は明らかだ。能登復興をめぐり財務省の提言が「維持管理コスト」を持ち出したことに、馳浩石川県知事が不快感をあらわにしたこともあった。そしてそれは政府がおかしいのではなく、国民の意識の表れともいえる。発災直後からSNS上では「能登半島は集団移転して復興を諦めろ」論がまかり通っていた。こういう発想が平気で飛び交うのは日本人くらいではないだろうか。台湾で「花蓮を放棄せよ」という人がいるだろうか。アメリカのハリケーン被災地に同じことを言えるだろうか。
自分の生活圏や身の回りに影響がない限りは災害が起きていることを知覚することもない。能登だろうが、愛媛だろうが、そこに親戚がいたり自分の出身地でもないならどうでもよく感じてしまうのが、我々日本人なのである。去年トルコでも地震があったが、そういう他国の災害と変わらないくらい意識が遠のいてしまう。だがトルコの復興はトルコ政府がやることであって日本の血税が使われることはないものの、能登は国内なのに出日本政府が支援せざるを得なくなる。すると自分の税金が無関係な土地に使われるのはけしからんと、あのような復興放棄論にもなる。
沖縄女性殺害事件でインタビューに応える翁長知事が、政府のことを「日本国」と表現していることに、軽くドキッとした。沖縄から見た日本政府への距離感を感じる。 pic.twitter.com/lCZK63mAGy
— 毛ば部とる子 (@kaori_sakai) May 20, 2016
災害以外にも、時の政権が地方を蔑ろにする例はある。沖縄県の辺野古問題がそうではないか。故・翁長剛志前知事は大浦湾を埋め立てて新たに基地が作られることに対し、抑止力のために「(菅義偉官房長官・当時の出身県である)秋田県の十和田湖を埋めますか。宮城県の松島湾埋めますか。琵琶湖を埋めますか」と訴えた。日本人は遠くの沖縄のことと割り切る限りはどこまでも他人事でいられるが、本土の象徴的な場所に置き換えるとはじめて当事者意識が持てるということを翁長氏は知ったうえで問いかけたわけである。もっともかりに本当に十和田湖や琵琶湖を埋め立てても、おそらく県民以外は誰も声を上げない可能性は高いだろう。能登の痛みすら共有できないのだから。
安倍政権下では、「明治150年記念」の取り組みが多々行われた。これも地方切り捨てである。明治維新とは長州藩士たちが江戸幕府を打倒した軍事クーデターだ。安倍氏は生前、自身が長州藩士の末裔であることを良く誇っていて、吉田松陰や伊藤博文初代首相を尊敬していた。しかし賊藩として攻撃された側からみれば無念の年であった。筆者の親は福島県出身だが、当時の福島県では「戊辰150周年」とされ、長州とともに官軍を成した薩摩の鹿児島県とではその受け止め方はハッキリと違っていたようだった。
この頃福島県の会津地方で長州藩をテロリスト呼ばわりした書籍がベストセラーになったりもしたが、それだけ地域の抱える複雑な感情は根深いものがある。筆者の親は子供の頃、福島に原発ができたのにそこで作った電気は東京で消費されて地元では用いられないということに疑問があったというが、思想家の内田樹はそのシステムが作られた原因を戊辰戦争の敗北にあると自身の「東北論」で主張している。
2018年に明治維新150年記念イベントを各自治体がやってたけど地域色が出てて面白かったよね
— 偏見で語る兵器bot (@heikihenken) July 29, 2021
画像は「薩摩が近代日本を創った」と「会津の想い、脈々と」の2選 pic.twitter.com/bSCtpNpXIy
つくられた日本人の限界
(wiki)それが明治維新によって新政府が立ち上げられ1つの日本国としてまとまることになった。当時の政権は欧米列強による植民地支配から国土を守るために産業の近代化を推し進め、軍隊を作り国民皆兵化を推し進めた。そのために教育勅語で子どもを洗脳し、ナショナリズムが広められ、日露戦争の勝利体験を経て「我々は日本人である」という共通認識ができあがったのだ。そして当時は樺太や台湾なども日本として認識され、生前流ちょうな日本語を話した台湾の故・李登輝元総統のように外地出身者にも日本人としての意識が共有された。
しかし戦後にはそうした植民地を失い、軍国主義も否定された。国家権力が上からナショナリズムを押し付けることはなくなった。それでも高度成長期で「大衆の時代」になり、1億総中流とかはやし立てられ、疑似的な国民共通意識というものは継続した。テレビを通じて野球選手が国民的ヒーローになったり、万人の誰しもが愛唱する歌謡曲みたいな文化も構築されていった。だが、そんなものが通用するのも団塊世代の高齢者以上に限られて久しい。平成以降はネットの普及と個人主義化が進んだためだ。
かくしていまになって、日本人の空虚さというものが浮き彫りになったのではないか。日本は欧米諸国のように明確な意思によって人々が立ち上がって作った国ではない。アメリカなら封建的なヨーロッパを脱した人たちが独立戦争を通じて建国したし、フランスならもちろんフランス革命で今の国家を作った。どちらも移民国家で、肌の色やルーツの違うアメリカ人やフランス人は大勢いる。しかし、そうした人たちであってもたがいを同胞とみなせるのは、「自由の国アメリカ」とか「民主主義の国フランス」という意識の共有があるからだ。
じゃあ日本人は何のためにこの国土で1つにまとまっているのかというと、それはないのである。そもそも「まとまり」ですらないのだ。日本国とは時の軍人が勝てば官軍で劣等を統一しただけの地域集団の複合体でしかない。それぞれの地域の意志を等しく尊重しているわけでもないので、コンフェデレーションやユニオンの類でもない。それが限界に達しているが今と言えるだろう。
辺野古問題で政府と沖縄県の対立が最高潮に達した時、沖縄メディアが「琉球独立論」に絡む記事の掲載を増やしたことがある。地域の益と中央政府の益の矛盾が行きつく先は分離独立しかなくなる。沖縄だけが特別ではない。能登もこのまま放置されれば不満が爆発して同じことが起きるのではないかとか、次は北海道か、あるいは私やあなたの住む県かと、そういう危惧が私にはあるのだ。