地方都市がもっとも繁栄していたのは1990年代後半

 

 (Wikipedia)

 地方の衰退が聞かれて久しい。いまや田舎の県庁所在地はもちろん浜松市や北九州市など政令指定都市でさえ中心街が空洞化し人っ子一人も見かけない光景は当たり前になっているが、地方都市がもっとも繁栄していたのは1990年代後半ではないかと私は考える。

 東京目線からすれば、この時期はバブル崩壊後で最も不景気が顕著で、都市博は中止となり、21世紀から今にかけての森ビル的な大規模再開発もほとんどなかった暗黒時代だ。しかし、私は地方都市はこの時期こそもっとも栄えていたと考える。

人口8万でもそごうが建った

 まず90年代にはデパートが当たり前にあった。人口20万を超える県庁所在地クラスの地方都市なら、中心市街地に複数の百貨店が軒を連ね競合していた。そして人口10万台、あるいは数万人規模でも、地場の昔ながらのデパートが1つくらいは存在していた。

 それは昭和の惰性で生き残っているわけではない。平成以降もデパートが新しく進出する動きがあり、1992年には当時人口わずか8万人の千葉県茂原市にそごうが建った。千葉とはいえ都心通勤圏からは外れた事実上の東関東の地方都市だ。また中国地方の山間地で今や人口10万を割れる片田舎の津山市にも1990年に高島屋が開業している。

 当時は平成とはいえまだ都会でもショッピングモールがほとんどない時代。「駅前市街地のデパート」が街のステータスだった中、首都圏郊外の20万のベッドタウン都市より、地方の8万都市の方がよほど百貨店に満ちていたことすら当たり前だったわけである。ちなみに東北地方なら人口数万の片田舎にもファッションビルのビブレが各地にあった。

 もちろんシャッターアーケードというものもなかった。地元のお店屋の集まりとはいえ、賑やかな商店街は地方都市でも当たり前にあった。高度成長期の街のスケールがそのまま持続されていたわけである。

ロードサイド文化がちょうどよかった時代

 それでいて、バイパス道路の整備が進み、ロードサイド店舗が全国の田舎に広がっていたのもこの時期である。ニトリやツルハドラックやしまむらのような今となっては東京でもおなじみのお店も当時はまだ田舎にしか見かけないものだった。と同時に、田舎でも人口20万くらいの県庁所在地クラスの都市なら、ケーズデンキのような大型店はあらかた揃っていたし、マクドナルドもデニーズもあったのである。

 筆者はロードサイド観察が趣味だが、最近は首都圏近郊と地方都市でクオリティの差が目立つようになっている。90年代くらいまではどちらも同じ店が同じように並んでいたが、地方はより安価な居ぬきのリサイクルショップのようなものが目立つようになり、都市郊外は人口密度と可処分所得の多さに比例する価格帯の高い外食チェーンのような高度な店が増えるようになった。

 田舎がクルマ社会で定着するようになったのはこの時期のことである。東北自動車道のような主要な高速道路の基幹路線はすでに全線開通し、そこから接続する山形道や秋田道などが整備が進み始めた頃で、インター沿いを中心にロードサイドの風景が一気に全国に広がった頃である。

地方で鉄道がまだ足として機能していた

 駅前市街地がまだ栄えていたというのは、地方社会の交通機関として鉄道にまだがプレゼンスがあったということでもある。いまとなっては老人ドライバーの暴走事故が頻発しているが、当時は明治・大正生まれのマイカーが存在しない時代の世代が健在で、そうした人は僻地に住もうが徒歩とローカル線が移動の中心でもあり、交通弱者の足として鉄道は欠かせなかった。

 一方で、高速道路がまだ未整備だった地域では、鉄道が最も重要な移動手段でもあった。JR四国が経営難になったのは平成以降四国島内に高速道路網が完成していったことで旅客離れが起きたと言うが、裏を返せば90年代当時はみんなまだ汽車に乗っていたということでもある。

 この頃は三セク路線の開業ラッシュでもある。国鉄から引き継いだ路線もあれば、例えば福島と宮城を結ぶ阿武隈急行のような新線も相次いで作られた。1997年開業の北越急行なんかは北陸と関東を結ぶ最速鉄道路線として特急「はくたか」で高収益を誇った。

 むろん、北海道では70年代から鉄道の廃線が相次いでいたいたように、末端ローカル線の廃止は当時もあった。しかし地方のすべてが鉄道が破綻している今の惨状はなかったというわけである。「一人一台」でロードサイド店舗に買い物に行くようなクルマ社会が広がりつつも、鉄道にも繁栄状態があったのだ。首都圏で10両編成の大幹線の電車が、田舎区間では2両だったりすることは当たり前だが、当時は田舎も長編成が当たり前だった。

目に見えてインフラの近代化があった時代

 道路整備の話とも部分的に重なるが、90年代は目に見えてインフラの近代化があった時代でもある。たとえばさっき例にあげた阿武隈急行の走る福島市内では、阿武隈川を渡って伊達方面に渡る「月の輪大橋」が1995年に開通し、それまでの渡し舟が廃止されたという。平成になっても地方は県庁所在地ですら渡し舟が当たり前だったのである。

 学校の校舎なんかも分かりやすい。筆者のような首都圏出身者は、公立小中学校といえばベッドタウンで人口が急成長した高度成長期に建てたボロのコンクリート校舎の印象で、令和の今も耐震補強をして使い続けているが、地方都市に行くと平成初期に建った校舎があまりに多いことに気づく。自分が子どもの頃なら「過疎地の小学生の方が東京よりいい待遇じゃないか」と思ったものだが、裏を返せばそうした地方では、90年代に新校舎が建つまでは戦前の木造校舎が当たり前だったのである。

 現代人の感覚からすれば木造は味わい深さがあり、渡し船はそれ自体が情緒のある文化財だ。しかしそれはあくまで他人ごとだから言えることで、もし私やあなたの地元で日常的にこうした旧時代のインフラが当たり前とされたら、おそらく相当生活が不便に感じることだろう。

 地方に道の駅のようなハコモノがやたらと増えたのもこの時期のこと。昭和の終わりのふるさと創生事業で作ったリゾート施設なんかがまだ営業を続けていた頃でもある。つまり地方でインフラの近代化が起き、その恩恵を最大限享受できていたのもこの時期である。

伝統共同体からゆとりある郊外マイホームの時代

 そして重要なことは、地方都市で「豊かな郊外生活」が実現しつつあったのもこの時期と言える。それまでは運命共同体的な伝統的な共同体がそこら中にあり、先祖代々の古民家に住んでいた。息子が成長すればその家を引き継ぐサイクルである。田舎の古びた家並みはそういうしがらみで形成されていたのである。

 しかし、古くて狭い実家を出て、マイホームを持つようなライフスタイルが地方でも広まったのが90年代と言える。三浦展が言うファスト風土化である。さっきふれたようなバイパスが整備され、田んぼ沿いが宅地分譲され、疑似ニュータウンになる。そこにはバブル期で豊かな広い庭付きの5LDK以上の邸宅が建った。その見た目だけを見れば東京郊外の中の上よりもよほど豊かな暮らしを、高卒のブルーカラーでも実現していたのだ。田舎は土地は破格の安さだからだ。

 駅前にはデパートがあり、ロードサイド環境もあり、生徒数が少なくとも小学校は立派な最新鋭のもので、新築の邸宅がある。そりゃあ東京首都圏よりもよほどQOLが高いように感じるが、そんな住環境は長続きしないわけである。実際のところ、筆者の地方に住む親戚はリーマンショック時期に立て続けに家を手放している。おそらく個人的な身内話ではなく、全国的に地方ほどダメージが大きかったのだろう。私のいとこにはもう生まれ育った実家が存在しないのだ。

 事実、最近の地方都市を見ていると、高齢化で主が他界した古民家が打ち捨てられる空き家問題とともに、バブル期に開発した民家が買い手のつかない空き家になる現象も増えている。古民家と言うほど味わいはないが、ボロくて、半端に立派なので値段も高い。東京都心に通勤できるわけもない。当然誰も買わないだろう。

 その一方で「ここは首都圏なのか」と思うような3LDKのハウスメーカーの建てた東京近郊でよく見るウサギ小屋も増えている。田舎は土地が安いとはいえ、バブル崩壊で若者はもっとお金がないので、この手の家を購入するのが限界だ。


 








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