「見えなきゃOK」の保守的日本人
岸田文雄首相の著書『岸田ビジョン』にこんな内容があったと思う。民主党政権で大逆風下、岸田氏が地元の広島で辻立ちをしていたら通行人に絡まれた。話をよく聞けば、今の自民党はけしからんが岸田氏のことは評価をしているというような趣旨だったそうだ。
こうした「個人的な支持者」を着実に増やし続けることで、岸田氏は地盤を固め首相に上り詰めたわけである。そしてこれこそが選挙互助会と呼ばれる自民党の本質だ。最近も、一連のスキャンダルを報じるテレビで、どこかの田舎で商売をやっている自民党支持層のオーナーが現状の政治を批判しながらそれでも支持を辞めないとインタビューに答えていて、左翼のSNSで批判的に拡散されていた。しかし左が勝てない理由はここにある。
いま野党共闘を訴える者たちにとっては夢のようなひとときだった民主党政権。だが2009年の圧勝からわずか3年で野に下ったのは、その政権の醜聞が報じられるたびに民主党支持層たちが失望し、離反し続けたことも要因としてある。つまりどこかの議員個人が問題を起こせば、それを「民主党全体の問題」としてとらえ、自分の地元の民主党議員に対しても疑いの目を向け、次の選挙での投票を辞めてしまう。大物議員が落選したり、小沢派が派閥まるごと出て行ったりするうちに、自民党に権力を奪還されたわけである。
もっともこれは有権者の政治に対する構え方としては、自民党支持層よりもまともな態度ではある。主権在民であるのだから、民意を裏切る政治家は厳しくジャッジを下すべきだ。しかし自民党支持層はそうはいかない。彼らは基本的に田舎に住んでいて、農家や町工場、商店街の古い地元の店の主など、地域に根を下ろした仕事をしている。そういう場所で自民党の政治家は地縁社会のしがらみに食い込むわけである。農協会館や商工会館に赴いて特定の職業の組合・業界団体の人だけのクローズな集会で報告会をやったり、自治会主催の運動会であいさつに行ったり、ドブ板をやるのだ。
自民党を支持する保守的な日本人にとっては、政治家は自分の生きている実社会の可視範囲で繰り広げられるしがらみの中にいる御用聞きみたいな存在と認識される。なので、地元選出の議員が真面目に走り回って汗を流している姿を見れば、絶対的な信頼を寄せるわけである。党より人である。彼らだって自民党員であるのに、テレビや新聞報道でしか見かけない浮世離れした政局ネタは別の次元として割り切って考える。遠く離れた東京の永田町や、自分の地元とは無関係な地域の議員が繰り広げる不祥事は他人事として切断処理されるわけだ。
もちろん、実際には自民党なんて田舎に行けば行くほど田中角栄のような利権政治・金権腐敗がまかり通っているわけであるから、彼らの目の前にいる政治家が見えない場所で悪さをやっていたりするだろう。だが「自分にとって見えない限りはOK」という風になる。このため、安倍晋三元首相の暗殺に端を発する旧統一教会問題や安倍派の裏金問題、そして今回の口移しセクシーショーなど、自民党の悪さが幾ら明るみになっても、彼らは地元選出の政治家への評価を絶対にやめない。これが自民党の強さの原因でもあるし、政権支持率が2割に落ち込んでも岸田首相が権力にしがみつく理由といえる。
見えたら大パニックな保守的日本人
そんな保守層にとって最大の弱点は「見えること」である。私はその代表例が、国立西洋美術館で起きたイスラエルのパレスチナ侵攻に抗議するパフォーマンスの炎上ではないか。企画展の記者会見の現場で、出品する作家たちがスポンサーの川崎重工に抗議するためのスピーチや垂れ幕の展開、ダイ・インなどをゲリラ的に行った。
作家らは川崎重工のイスラエルからの武器購入を問題視し、この行動に踏み切ったが、これがある種の保守的日本人の間で反発を招いている。「美術館に政治を持ち込むな」というものだ。彼らの認識では美術館というのはあくまで政治的空間と切り離されたものであって、ゲリラパフォーマンスはその秩序を乱す悪しき行為というわけだ。X(旧ツイッタ―)を見るに一部の保守的芸術家すらその側に立っている。
この保守的日本人にはいわゆるネトウヨも含まれるが全てではない。普段のポストがけっしてネトウヨ的ではない人たちも大騒ぎしていて、それらを見ているとネトウヨというよりも、どうも先述の自民党を田中角栄的な感覚で支持している層と被って見える。彼らはおそらくレイシストでもなければ、軍国主義者でもない。ただ「見えないふり」をしていた問題が目の前にはっきり可視化され、自分の空間に上がり込んできること。そうした一連の「自分の中の割り切っていた秩序」が破壊されることに恐怖し、そして炎上で大騒ぎしているのではないかと思うのだ。
SNSでは過去にもネトウヨとは言えないが感覚的に保守的な層による「音楽に政治を持ち込むな」騒動があったし、彼らは最近も漫画家の鳥山明氏の訃報に際して鳥山氏の表現には「政治性がなかった」として礼賛するような内輪の盛り上がりがあった。これらは左翼ならば的外れだとすぐにわかることだ。実際には体制従属だろうが反体制だろうが芸術表現と政治との関係性は不可分であるし、鳥山氏の作風にはリベラルな意思を見ることもできる。それでもなお事実を捻じ曲げてでも政治と遠ざけたがるかというと、それはある種の保守的日本人にとって芸術や娯楽が「逃げ場」になっているからだ。
イスラエル問題に話を戻すが、島国である日本では、外国とのつながりを持つことなく生きることは容易だ。おそらく多数側の国民が、親戚や友人関係に一人も外国人・外国ルーツの者がおらず、イスラエル問題を遠くの「カイガイ」での出来事だと割り切ることができる。日本の外で何百人何千人が殺し殺されようが、自国の秩序に目に見えた影響がないならどうでも良いということだ。しかしそうやって人類普遍の理想である恒久平和を妨げる不都合な現実からさんざん目を背け、遠ざけて生きてきたのに、いきなり当事者にされることは恐怖だということだ。たまに東京の路上で一人で立ってパレスチナ支持を訴えるスタンディング行動を行う人がいると、SNS上では「現地に行ってこい」「せめて大使館前でやれ」という冷笑的な反応が飛び交ったりするのもそう。自分が生きている空間である東京の街中に避けていた「政治」が出現し、自分の生きる空間がその当事性をもたされることへのアレルギー反応なのだ。
今回の抗議行動のあった西洋美術館のルーツは川崎重工初代社長の「松方コレクション」にある。大日本帝国が強い軍隊を作り、殖産興業を進めて近代化していく中、軍需産業で儲けた商売人が集めた芸術品の収集・展示施設であったという政治性の上に施設が成り立っているわけである。抗議する作家たちはそうした歴史的文脈も踏まえているそうだが、脱亜入欧で西欧に追従しながら軍事国家として発展した戦前の姿と、欧米諸国べったりでイスラエルの側に立ついまの日本をダブらせた上でのパフォーマンスだとすれば、この行為自体が強烈な政治風刺のアートになる。
もっともネットの連中たちは、そこまで理解できる知力も視野も教養もないだろう。だが、なんとなくこの行動に深い意図があることを「察し」てはいる。そしてその見えないふりをしていた不都合な事実の全容が分かってしまうことを怖がっていて、そうした精神的なナイーブさが、今回のあの感情任せなネットの炎上につながっているのではないだろうか。
そしてこうした精神構造こそが保守的日本人の弱点だ。「保守的日本人の総元締め」としての自民党を打倒することに燃える左翼勢力は、ぜひここを突くことを考えてはどうだろうか。
安倍政治が長続きした理由