東日本と西日本で異なる「東京コンプレックス」の根源は戊辰戦争

 

 (Wiki)

 中央集権国家である日本。その首都で最大都市である東京に対して、地方の人たちの多くは歪んだ感情を抱いている。いわゆる「東京コンプレックス」である。しかしそれは都会対田舎という単純な構造ではない。


 私は首都圏出身ではあるが、両親は東北出身で親戚が北に多くいて、大学時代に関西人の友人たちと出会っている。日本各地に行ったりして、人々の東京に対する言及を観察しているうちに気づいた。それは東日本と西日本でコンプレックスの構造がまったく逆であるということである。

カメレオンのように東京に染まる東日本

 まず親戚のゆかりもある東日本では東京に染まりたがる感覚が本当に強い。分かりやすい例が言葉である。祖父母の家のある東北地方は日帰り圏ではなく文化的には遠いため、祖父母世代や年配の親戚(団塊世代以上)は相当なまりがきつく、外国語のようにさっぱりわからない。しかし、若い世代ほどよどみのない標準語を喋るのである。何しろ還暦を過ぎた両親さえ自分の世代は方言になじみはなかったという。

 テレビの影響である。東日本の地方では、テレビの普及によって東京式の標準語が伝播され、それに染まる。そして「東京のテレビが伝える文化には染まるもの」という常識が形成されている。テレビや広告代理店がどんちゃん騒ぎした流行現象は、必ず少し遅れて東北などの東日本の地方に流入されるのだ。

 しかしそれは首都圏出身の私から見ると違和感があることだ。テレビが伝える現象は必ずしも東京の街の人が本当に注目していることとは限らない。21世紀以降はテレビ離れが進んだので東京の感度の高い若い世代の関心事ほどマスコミ主導の商業文化と乖離している。ちゃんと一致していたのはタピオカブームくらいじゃないか。

 何年か前に盆休みに東北に行ったときに久しぶりにいとこと会ったら、よくわからないJ-POPのアーティストにハマっていたようで話が全くかみ合わなかったが「東京の方がよく分かるんじゃないの」と言われたものだ。当時の私はEDMの洋楽しか聴かなかった。ちなみに宮城の女子高生のスカートがやたら短いのも、「東京はミニスカのコギャルが多くいるから」という都市伝説みたいな発想が根拠にあるそうだ。東京はむしろ長いだろうに。

 2000年代に日本ハムや楽天の球団進出があるまで北海道と東北地方にはプロ野球チームが存在せず、巨人ファンが多かったという。これも巨人が文字通り巨大で強い東京の象徴だったからではないか。私は首都圏の人間ではあるが神奈川県民で、生まれ育った地元の湘南のカルチャーに愛着があるから、東京という強い主体に率先して従属し、染まる東日本の地方在住・出身者の感覚はまったく理解できないが、そこにあるのは事大主義的な感覚なことは確かだ。

東京アンチ・ナショナリズムに燃える西日本

 他方西日本型の東京コンプレックスは違う。関西の人は若者も関西弁を話しているし、上京しても関西弁を話すことは有名である。ちなみに学生時代に広島出身の先輩は普段は標準語であったが、ちょっと気が緩むと広島弁でまくし立てて話していた。関東人のなじみのない私にはヤクザの言葉のように物騒に感じたが、けっして脅したりする意図はなく、それが本音で話せる染みついた母語なのだろう。

 こうした傾向は西日本全体にある。武田鉄矢が味のある博多弁を話したりするのもそうである。そして関西なら阪神ファン、広島はもちろんカープファンが当たり前で、九州ではホークスが郷土を背負うアイデンティティのようになっている。

 一方、SNSで西日本人の書き込みに触れるようになって気づいたことがある。それが「東京キー局は自主路線をやめろ!」というものだ。地元のローカル番組を差し置いて全国ネットの番組を放送したがったり、全国ネットの番組内で東京でしか通じないネタを伝えることに対する嫌悪感があるということだ。

 これは東日本と全く異なる。情報番組が東京で大ブームの店を伝えると、東日本の地方の人は喜んで注目し、新幹線で上京してはるばる来店しに行ったり、地元に支店が進出すると行列を作ったりするが、西日本人は「東京ローカルの話題を押し付けてくるな」と怒るのである。もちろんそうした話題も、さっきのJ-POPのようにテレビが勝手に騒いでいるだけで東京人は冷めていたり無関心がほとんどだが、西日本人は「東京のテレビが伝えているなら、それが東京人の関心事なのだろう」という思い込みのもと、勝手に東京人嫌いを増幅させるのである。テレビを間に受けたがる点だけは東西地方民は一緒だが構え方が違うのだ。

 こうした東京アンチテーゼは西日本の地域性に少なからず影響を与えている。平成以降全国チェーンが日本中に氾濫する「ファスト風土化」が進んだが、西日本にはヨーカ堂はほとんどないし、イオンも田舎の隅々を攻略しきった東日本ほどの進出度ではない。西に店舗網を広げられなかったヨーカ堂は流通トップになれず東北・北海道からも撤退することになってしまった。ファミリーレストランなどでも西日本にしか見かけない屋号はちらほらある。

 こうした西日本の感情を巧みに利用して台頭したのが橋下徹氏の旗揚げした大阪の「維新」ではないか。維新は今でも大阪の地方行政を牛耳っていて近畿の各府県に広がりつつあるというが、関西人の中にある「東京に負けてたまるか」というアンチ巨人的な意識が維新支持の動機につながっているという指摘がある。大阪が公共財を切り売りしながらやたら再開発でタワマンを建てているのも、大阪だって同じくらい発展しているんだぞと新しい高層建築だらけの東京に対抗しているわけである。

 これはある種の排外的なナショナリズムの変形版のようでもある。ネット右翼の急激に発展するアジアに対する焦りから増長された中国・韓国への嫌悪、あるいはそうした国々の一部にある「反日感情」にも類似している。東京コンプレックスは大国コンプレックスのミニバージョンなのだ。

戊辰戦争が尾を引いている

 東日本でも西日本でもない首都圏の人間の私からすれば、東京を過剰に意識することなく、自分の地元の文化を大切にすればいいのではないかと思うのだが、東日本人は卑屈なくらいに媚びへつらってインチキ東京人に染まりたがるし、西日本人は隙あらば東京中心主義けしからんと東京相手に当たり屋のように喧嘩をふっかけようとする。これはよくない。

 なんでそんな歪んだ感覚が東西にできてしまったのかを考えると、おそらく原因は戊辰戦争である。戊辰戦争は、佐幕派の東軍と薩長土肥が錦の御旗をひっさげた西軍とぶつかった内戦でありで、これにより西軍が勝ち、幕府は崩壊して近代国家の日本国になりその新政府は新たな首都である東京に設置された。

 それは東から見れば「西に征服された」図式でもある。しかし勝てば官軍負ければ賊軍で、勝った側の支配を受け入れ、恭順を示してきたということだ。これは第二次世界大戦後にマッカーサーがやってきたとたん、昨日まで敵国だったアメリカにべったりになってギブミーチョコレートと米兵を追いかけてジャズの洋楽に親しんだわれわれの祖父母世代と一緒である。日本人というものがそもそも事大主義的な民族性であるため、強い支配集団になびいてしまうということだ。

 母が言うには、若い頃に祖父が東京に遊びに来くときは牛肉のすき焼きを食べたがったという。祖父は決まって「中央に行く」と言ったそうだが、すき焼きは明治時代の文明開化の時代の食べ物で、文明開化の中心地を象徴づける御馳走だったのかもしれない。ちなみに東日本ほど肉は豚が主流で西は牛肉である。距離の遠い東北には西日本的な影響はほとんど伝わってこないが、西日本人が作った街である東京にはその感覚がそれなりにあって、それが東北からすればハイカラに見えるのではないか。

 一方、西日本からすれば、いくら東京を作り、東京の政治経済を支配している者たちが西国出身者とその子孫であったとしても、首都が奪われ経済中枢も大阪から移っていき、東に吸いつくされているという危機感はある。それでいて戦に負けた側ではないわけだから、地元に対するナショナリズムとか、すきあらば立ち向かおうという意識になると考えれば腑に落ちるのである。

 明治維新なんて相当大昔であり、経験した人はとっくに存命していないが、現代人でもなおどことなくその禍根が受け継がれているわけである。福島と山口が仲がいまだに悪いのはその代表だ。

いびつな中央集権制を断ち切る必要性

 東京は支配集団は西国出身だが、人口の大半ら東国出身者の寄せ集めで巨大都市になっている。この構図があるので、日本が中央集権制国家として落ち着けていたのは事実ではないだろうか。仮に新政府の所在地が京都や大阪だったら、国家の軸が西に偏りすぎてしまい、幕府が滅ぼされて失ってばかりの東日本は不満だらけでまた内戦になっただろう。あるいは仮に東軍が勝利し幕府が体制内改革で近大政府を築いていたなら、支配者も多数派住民も東国の人間となりどのみち西から争いになったはずだ。

 しかし、令和時代の今、東京のエスタブリッシュメントたちは先祖のルーツは西国でも東京生まれ東京育ちで、西日本から見れば完全に「東京モン」になっている。自民党の西日本選出の世襲政治家なんかまさにそうだろう。方言も話せないお坊ちゃんが選挙の時だけ郷土人ぶって地元回りをするんだから舐められたものである。また、多数派の東京人たちも、自らが上京した当事者ならともかく親が東北・甲信越・北海道出身という2世世代であれば、アイデンティティの置き場は東京である。まして3代済めば立派な江戸っ子なのだ。

 そんな風に東西どちらの地方とも関連性の絶たれた「東京人」というものと、当事者東京人そっちのけで一方的にコンプレックスを抱き続ける東西の地方人の3つの部族に分割されているのが今の日本社会ではないかと私は思うのだ。東京人の若者がだれも見ないテレビを、東北の人が鵜呑みにし、関西人が毛嫌いする。歪んだ意識だけが増長され、独自の地方文化が衰退したり、あるいは地方文化としてまともな形のまま昇華すればいいものが排外主義に蒸留されてしまう。


 これは健全ではない。そこで私は今こそ日本には脱中央文献、地方分散型のモデルへの転換が必要だと考えている。東京の首都機能を地方各地に分散させる。アメリカの連邦制のように地方政府に権限や財源を多く与え、東北は東北、関西は関西の地域主権を確立させる。テレビキー局みたいなおかしいシステムは廃止したらいい。アメリカにはニューヨーク至上主義なんて存在しないんだから。

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