なぜ右は天皇を蔑ろにするのか

 ネトウヨの間では日本を「ニッポン」と読むのが正しいとする謎のローカルルールがある。しかし実際には、天皇陛下をはじめとする皇族も「ニホン」と読んでいる場面はいくらでもあり、以前から突っ込まれ続けている。ネトウヨは天皇陛下の「お言葉」もろくに聞いておらず、やんわりと皇族を蔑ろにしているわけでもある。


 右翼といえば天皇を敬愛するのが思想の大前提だから、こんなことはありえないと思うだろう。しかしネトウヨというのはそういう雑な生き物である。もっといえば、本来の右翼と呼ばれる人たちだって果たして本当に「大御心」を理解しているかというと疑問がある。


 皆さんもご存じのように、戦前の日本は国家主義体制をとっており、我々の祖父母やその上の代の人たちは「天皇のために死ね」と犠牲にされた。そうした暗い過去もあるので、今の皇族方は平和活動に尽力されている。そうした努力を無に化するのが右翼たちの過剰な天皇礼賛だ。


 以前、私は動画サイトで、移動中の皇族の車列にチンピラのような恰好をした右翼たちが「天皇陛下万歳」とドスの効いた声で呼びかける映像を見たことがある。ハッキリ言って総会屋や褒め殺しの類にしか見えないものだ。しかし右翼とて国民なので、象徴たる皇族はにこやかに手を振り返すしかできないのである。疑問符しか浮かばない。そこに彼らがいう「敬天愛国」などあるのだろうかと。


 戦前賛美や戦前回帰を主張する右翼たちが、戦前のノリで「天皇陛下万歳」と叫んでいるのは、戦後リベラルを体現する皇族に対して「不敬」であろう。しかし日本の右翼や保守派はそういうことを平然とやっていた。20年前の園遊会で、とある右派論客が子どもに国歌斉唱をさせることが自分の仕事だと言い、それに応じた天皇陛下が「強制でないのが望ましい」と述べたこともあった。


 戦後の平和国家象徴を模索してきた皇族と、戦前回帰を目的とした右派の乖離が露呈した「事件」だったが、この溝はその後20年を経てネトウヨの台頭により余計に広がっている。


天皇を玉と呼んだ明治維新の志士

 右翼・保守が尊崇してやまないのが、大日本帝国を築いた長州藩士ら明治維新の志士たちだ。しかし彼らが天皇を「玉」呼ばわりしていたのは有名な話だ。明治維新とはいわば武士同志の内乱でありクーデターである。たまたまクーデターに成功したことで新政府を樹立したが、そうでなければただのテロリストである。


 事実、明治維新を主導した長州藩士たちは、その少し前には禁門の変で御所に砲撃をした朝敵だった。彼らが根っから天皇を敬愛しているなら、まかり間違ってもそんなことはしないだろう。つまり、右翼的なるものの元祖の明治の志士からして、天皇は利用できる道具としてしかみなしたおらず尊崇の念などないのである。


 第二次安倍政権で行われた「主権回復の日」式典では、天皇皇后両陛下の退席の際に不意打ちで「天皇陛下万歳」が行われ安倍晋三元首相らが万歳をする忌まわしい光景があった。政権奪還直後の、自民党が右翼カラーが鮮明だった時期のことだ。生前長州藩士の末裔であることを誇り、幕末の志士を敬愛してやまなかった安倍氏らしいパフォーマンスといえる。

 皇族方が気まずそうにするのも言うまでもない。指摘にあるように、この日は沖縄では施政権を外された「屈辱の日」と呼ばれている。沖縄県民や沖縄とともに日本を離脱した島しょ部の人々やその子孫からすれば、慶事でもなんでもない。左翼が起こるのは当然であるし、そうした地域の人たちにとっても象徴であろうとする皇族たちの努力を無碍にする不気味な光景だ。


 こののち、沖縄と本土では安倍政権の辺野古新基地建設強行をめぐり全県衝突による分断が起きたことはみなさんもご承知の通りだ。また以前もブログで触れたが、安倍政権は「明治維新150周年」式典を行い、維新の官軍である山口県や鹿児島県などは地域おこし行事を行い、右翼・保守勢力もそれに続いたが、新政府に打倒されて徹底冷遇された福島では「戊辰150年」としてまるで先の大戦を振り返るかのようなメモリアルイヤーだった。


 左翼からすれば「天皇=右翼のシンボル=天皇制廃止」という主張が当たり前だが、実際にはそんな単純なことでもない。象徴天皇制をひっくるめた戦後秩序とそれを支持する多数派国民と、暗殺された安倍元首相を中心とした右翼・保守勢力の構図が浮かび上がるのではないかと思う。沖縄や福島なんか後者の側から簡単に切り捨てられ、地域まるごと蔑ろにされるのである。

リベラルに必要な「象徴天皇の平和国家」の重要性

(Wiki)

 筆者は右傾化を憂慮しているが、基本的には左翼への不信感がある。平成生まれではあるが当時の神奈川県では保守が言うところの「日教組の教育」がまだ当たり前に存在していた。定年間際の学生運動上がりの団塊世代の教師が、卒業式の練習で国歌斉唱だけをすっ飛ばしたり、露骨なことは当たり前だった。そうした日教組の支持を受けているのが民主党だったし、オールド左翼の中では「天皇制廃止」は右翼の「天皇陛下万歳」ばりのテーゼになっている。


 だがそういう発想は時代遅れではないかと思う。戦前の国家主義に利用された天皇と戦後の象徴天皇は明らかに別のものであり、戦後の象徴天皇は多くの国民に親しまれている。以前にもTwitterで、「天皇はぴば」(ハッピーバースデーの意味)と投稿した女子高校生がネトウヨの間で炎上したことがあったが、それくらいの親しみの姿勢の何が悪いのだろうかと私は疑問があった。先日も伊勢神宮で愛子様を出迎えた子どもたちが「卒業したんやろ、大学」と声をかけたが、愛子様は笑顔で応じられており、国民と親しむ皇族象を体現されていた。


 多くの国民は、森友学園の教育勅語の洗脳(戦前の学校で一般的だった光景)を気持ち悪く思い、右翼の「天皇陛下万歳」を怖がっているが、天皇制廃止をしなければ民主主義が成立しないとは考えていない。統計を取ったわけではないが、多数派の日本人の感覚はあの「天皇はぴば」や「卒業したんやろ」と言ったり、それをほほえましく思う側にあるのではないか。


 ならば左派は、頭ごなしの思考停止した「天皇制廃止」ありきではなく、そういう風な象徴天皇のもと長く続いた平和国家の秩序を守るために右傾化勢力と対峙するという図式に切り替えるべきではないかと強く思う。たとえばイギリスの労働党のような欧米の立憲君主国家の主要左派は、王室解体を党是や公約に掲げていない。主流多数派国民と国家観を共有しているので、英労働党をはじめ向こうの左派政党は広く支持され、政権交代も当たり前なのだ。








 

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