森ビルは悪ではない

 

(Wiki)

 以前、筆者はメキシコ人の友人に東京を案内した際に、オープン直後の麻布台ヒルズに連れて行ったことがある。真新しい高層ビルやヒルズの名にふさわしい丘陵状の空中庭園を興味津々に楽しみ、嬉しそうに自撮り写真を撮りまくっていた。


 森ビルはバブル期のアークヒルズにはじまり、六本木ヒルズ、虎ノ門ヒルズと港区で大規模再開発を続けてきた。これらの場所にはビジネスや観光で訪れる外国人も多く先進国の首都の「自尊心」のような空間が広がっている。


 一方で、この手の大規模再開発は、既存の風景を更地にして無機質に変貌させてしまうために「まちこわし」だと否定する人もいる。東京の街に愛着がある人ほど、新自由主義批判の文脈で森ビル害悪論を訴えたがる。


 私は基本的に見境のない再開発がまちをぶち壊すという主張には賛同しているし、神宮外苑の再開発は阻止すべきだと考える側だが、そんな自分でも森ビル害悪論は間違いだと思う。以下にその理由がある。

都心の片隅の不便な丘陵地を一等地に変える森ビル

 まず東京の街の作りを考えてほしい。都心と呼ばれるのは山手線の東側、東京駅があり銀座などがある千代田区・中央区のあたりである。一方で、山手線の西側は、世界一の乗降客を誇る新宿駅を筆頭に副都心が広がっていて、これらのターミナル駅があり平地に街が広がっている場所を軸に、東京の街は広がっている。


 それに対し、港区で森ビルが再開発するような場所はJRの主要なターミナル駅を持たない。地下鉄を乗り継がないといけない場所である。そして「ヒルズ」の名の通り丘になっていて平地に乏しい土地だ。それらはかつての光景は東京のど真ん中でありながら昭和の古い民家が残るような開発から立ち遅れ続ける場所だった。


 じじつ麻布台ヒルズの場合、地権者の9割が再開発に参加し、反対論はほとんどなかったという。緊急車両も入れない木密地域で、火災や防災上のリスクがある場所だ。そこが再開発によりただ高いビルを建てるだけでなく広い道路や避難所にもなる広場も作られたので、住民としてはむしろ評価されているのである。


 人やカネが集まり続ける東京で、そのままにまかせておけば今も大きな再開発が進む丸の内のような一等地やその近隣ばかりが集中するようになる。これでは東京の構造がアンバランスになってしまう。そうした中「経済合理性」では無視される場所にあえて莫大な資本を注入し、不便な丘陵を景観にアクセントを与えるランドマークに生かし、再開発によって隣接する地域の価値も向上させていく森ビルのやり方は民間主導のまちづくりの優秀な例だと私は考えるのだ。

浮き彫りになる東京の「まちづくりの不在」

 「経済合理性」ありきでは交通アクセスのよいまとまった土地ばかり一点集中してしまう。これはどの自治体にだってあることだ。東京のような都会だけではなく、田舎県の地方都市でも、インター沿いのイオンモールやその近隣ばかり全国チェーン街道が作られ周囲が宅地分譲され、既存市街地はシャッターアーケードになり旧道沿いの古くからの辺鄙な集落は空き家だらけの限界集落になる現象がある。


 しかし地方都市の場合、自治体主導によってグランドデザインが描かれ、税金を投下して商店街の再開発が行われたり、辺鄙な場所でもハコモノ建設で雇用機会や交流拠点が整備されたりするものである。こうした行政主導のまちづくりは利益誘導とも批判を受けることがあるが、もし実行しなければさらに「経済の論理ありき」のアンバランス化が進んでいたはずだ。


 ところが東京には戦時中に東京市を廃止して以来、全体の面倒を見る器が存在しないのである。東京都の場合多摩地区や島しょ部を含めた行政機関であるし、権限が村以下の港区という特別区政ではできることに限りがある。かりに港区が市レベルの権限を持っていたとして、区内の利益を考えた行政に、東京全体の面的視座のある再開発計画を策定して実行する発想はないだろう。縦割り行政だ。


 諸般の事情から「行政によるまちづくり」が存在しない東京で、その肩代わりを1企業がやっているのが森ビルともいえるのだ。これは決して軽視できることでもないし、悪しきことでもないだろう。神宮の森奴疑似市場をぶち壊す再開発と、森ビルが行うヒルズ建設は分けて考えるべきであるし、それができずに叩く人は大企業のやることは何でも反対のよくあるダメな古い左翼の欺瞞である。



 






 

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