左派の「台湾は日本より豊かになった論」は矛盾でしかない

 台湾・花蓮での地震を受け設置された避難所の様子が話題だ。エアコンの効いた体育館の中でプライバシーの確保されたテントが立ち並び、物資や食料も集まっているという。元日の能登地震ではしばらくの間で雑魚寝が当たり前だった。もう台湾の方が日本よりも豊かなのではないかとSNS上で話題になっている。


 確かに避難所の環境は台湾が圧倒的優位なのは事実だ。しかしSNSで加熱する日本叩きは国の違いを無視したミスリードのように見えてしまう。体育館にエアコンがあるのはもともと台湾が亜熱帯気候の国で熱中症対策のために必須であるからでもあるし、備蓄が充実しているのは「台湾有事」の備えでもある。

 そして重要なことだが、こうした迅速で充実した支援は民間団体によるものが大きい。台湾は平時から市民活動が盛んで官民協働や公民連携に長けている国だ。裏を返せば「公助」が薄い。もし民間の取り組み抜きであれば、ここまで早い対応はできなかった。


 台湾は30年前の民主化まで軍事独裁国家だった。それまでは国家権力が絶対で、言論表現の自由はなく市民の権利はないがしろにされていた。国家のリソースは権力を守ることにのみ削がれ、人々は何かあったら「自助」でどうにかするしかなかった。それが民主政に移行したが、福祉が分厚くなったわけではなく、民主政府と民間が連携する「共助」が一般的になったということだ。日本とは根本的に国柄が違うのである。


 日本はかつては田中角栄政権に象徴されるような「日本型社会主義」と呼ばれる体制だった。大きな政府の元で国が豊かになれば福祉や社会資本投資という形で再分配され、疑似的な総中流社会が実現していた。それが小泉・竹中構造改革で新自由主義に移行したことで分厚い公助が弱くなり、能登の被災地の困窮につながっている。


 成り立ちこそ違うが、台湾もまた新自由主義の国なのである。しかし日本の左派はTBSの須賀川記者が現地取材して知るような事実を無視し、あたかも「台湾は日本より公助が充実している国で、しっかり分配している」かのように印象付けている。これはナンセンスだ。

共助の充実を否定してきた日本の左派

 筆者は台湾に詳しい。台湾人の友人がたくさんいて訪問経験も何度もある。だからこそ言えることは、台湾はアメリカ型の経済格差を容認した上で民間活動を「公」の代わりにする国だというものだ。

 例えば台湾には公共電視台という公共放送がある。その財源は日本の公営放送のNHKや韓国のKBS公社のような受信料制度ではなく、企業や個人による寄付である。つまり国家権力から独立して公平性が保たれながら、大金持ちが大勢いることで、営利を目的としない公共放送が成り立っているということだ。これはアメリカの公共放送PBSと全くそっくりだ。PBSはセサミ・ストリートで有名な放送局だ。

 この公共電視台が発足したのは民主化以降の90年代のことで、それ以前のテレビは軍事政権の国営放送だった。旧国営放送は民営化され、CMも流れる普通の民放になって今も存続している。まさに独裁国家から新自由主義国家への転換がテレビにも表れていたのである。

 しかしながら日本では左派が「NHKは政権言いなりだから民営化して、非営利の公共放送を立ち上げるべきだ」という主張をしたことは一度もない。私は台湾を見習ってそうすべきだと考えているが、左派が口が裂けても言わない理由は、NHKの組合の日放労がお仲間だからだ。ちなみに国労の存在を理由に国鉄民営化反対だったのも同じ理由からだ。

 日本でも小泉政権化で新自由主義の政治が進んだ際に、構造改革特区などで民活が注目されたりした。民主党政権化「新しい公共」と称して、NPOの中間支援組織へのバラマキが行われたこともあった。トニー・ブレアの第三の道路線の日本版を模索した形で、これは第二次安倍政権の「共助社会」に引き継がれている。政府や行政だけが福祉をやるのではなく、大企業がパトロンになった民間団体にやらせることできめ細やかな公共サービスを実現させようという発想だ。これからの時代はデモより起業だと、社会的起業家がもてはやされたものだった。

 しかし日本の左派は、こうした民間活動を「新自由主義反対」の論理のもとで否定した。さらに左派はこの手の事業型NPOに対しても、公権力と敵対せず、企業をビジネスパートナーにするなんて市民活動なんかじゃないと、竹中平蔵批判のノリで叩いて拒絶したのである。かくして日本ではアメリカや台湾ほど民間活動が分厚くなることはなくなり、その間も地方自治体は財政難で予算を減らしてきたので、ただただ格差だけが広がった末に能登の悲惨があるわけである。

 そうした立場を20年以上とってきた左派が今さら台湾を持ち上げ、日本はけしからんというのはあまりにも矛盾しているのである。

「豊かな台湾」への羨望は格差肯定と紙一重

 

 地震の前からこうした台湾の経済的豊かさを持ち上げる言説はあった。代表例が熊本へのTSMC進出である。台湾の半導体メーカーのTSMCが大工場を作り、熊本の田舎がバブル状態で大喜びだというものだ。バイトやパートも高い時給で雇われている。日本経済がさんざん没落する中、格下だった台湾に負けてしまったと「日本オワタ」論のダシに使われ続けた。

 だが、左派がそれを言うべきなのだろうかという疑問がある。民主化以降の台湾はアメリカ流の新自由主義の国なので、民間企業は伸びしろのある会社はとことん伸びる。それは日本みたいに高い法人税を納めたり、厳しい規制のもとで最大限金儲けをすることが制約されてしまうことがないからでもある。

 台湾の一人当たりGDPや購買力平価は日本を上回っている。しかし実際に台湾の現地に行くと、富の偏在を気にする場面があまりに多い。路上を走る大量のバイクは名物になっているが、裏を返せば多数の庶民はマイカーよりもバイクが移動の足になっているということだ。たまに日本オワタ系の人が、台北市内の駐車場に欧州車やテスラが沢山停まっているのを理由に「日本は東京でも軽自動車だらけ、台湾じゃ外車が当たり前」というが、それは日本人であれば軽自動車に乗れるような層もバイクに乗るのが限界という事実もある。

 そうした庶民の格差が放置されたまま、エリート層や実力のある企業はとことん伸びるので、金持ちが目立つ社会になるのだ。新自由主義で格差が進めば進むほど「平均値」が意味をなさなくなるという指摘は、左派こそさんざん小泉・竹中や維新批判でやってきたものだが、台湾はその典型の国なのである。
(Wiki)

 これは住宅なんかにも言え、台湾の新築戸建て住宅は3階建てで部屋がいくつもあるような場合が多く、そんな家を20代でもポンと買える人がいたりするのだが、それは単に「金持ちの豪邸」なのだ。過密の台湾ではマンション住まいが当たり前で、そもそも戸建てに住める時点で特別な富裕層であり、その富裕層のすそ野ばかりが広がっていることは、エリート優先で社会が動いていることを意味する。台湾が成長するほどこうした金持ち戸建ての造成が増えているが、鉄格子窓の古びた集合住宅は依然主流のままだ。庶民はいつまでもも「長屋住まい」から出られないのだ。

 あるいは台湾に進出する日本の外食チェーンが日本よりもメニューの値段が高いことを理由に「日本は抜かれた」という人もいる。これも、実際に現地で行けばわかるが内観が凝っていたりして、日本では庶民向けのファミレス感覚で展開するお店でも、台湾では本場志向のカジュアルダイニングに切り替えていることが多いのだ。つまり日本人にとってのシズラーやアウトバックステーキみたいな存在なのであるから、わざと値段を高めにして客層を絞っているのである。

 その一方で、台湾は屋台メシが盛んだ。現地のインフレが進み日本の円安もあるので昔よりかはお得感は減っているとは言うが、それでも300円以内でランチが食べられたりする。サイゼリアや松屋どころではない安さである。日本には夜市もなければ屋台もないので、チェーン店がそのかわりになるが、庶民の外食の基本はである屋台は台湾では大戸屋なんかよりも相当目にする機会がある。小学生さえ通学途中に屋台で朝食をとっていたりする。

 ちなみに日本最大手の総合スーパーのイオンは、アジア各国に店舗網を広げているものの、日本のチェーン店が多く日本と生活様式も似たはずの台湾市場ではあっけなく数年で撤退している。これも「豊かな庶民」の不在が敗因だったと私は考えている。台湾には大潤発という大型スーパーもあるが、大潤発の雰囲気はスーパーというよりは昔のダイクマのような無骨で安っぽい感じだった。市場で買い物するか大潤発に行くような庶民にとってイオンはこぎれいだが中途半端に敷居が高くて安価さもない。そりゃ流行らないのである。

 台湾ではその替わりに日本では死にかけだった三越やそごうが母国日本を上回るレベルの全国店舗網を維持し、そこではエリート成金たちや昭和日本でよく見たような「たまに背伸びしてデパートに行く」層が若者を含めて集まるのである。三越・そごうが潰れてイオンモールだらけになった日本と台湾の状況が真逆なのは、格差の固定化とそこそこ豊かな庶民層がいないことが原因に他ならない。

台湾上げ・韓国上げはただのエリートの選民思想

 こうしたことは対韓国にも言えるが、日本の左派は近隣国の「上澄み」だけを見て、アジアが日本を抜いた、没落日本けしからんと自虐を楽しむ傾向があるのだが、それは視野狭窄でしかない。隣の国のエリートの成金っぷりだけを見て羨ましがっている。その歪んだ視線から、膨大な分配を受けることなく搾取される多数国民の存在が無視されている。弱者を無視して何がリベラルか。

 戦後の日本には闇市があったが、平成生まれの私が生まれるはるか前には日本の街から市場は消え、スーパーでの買い物が当たり前だった。しかし韓国も台湾もどんなに豊かになってもいまだアジアの臭いがする市場があり、そこで買い物をする人が大勢いて、何より生計を立ててる商売主がいるのである。日本では自国企業の圧倒的大多数は中小企業とされているが、台湾や韓国ではサムスンやTSMCのような大企業や財閥系を除くと、屋台を引いた露天商のような商売のみになるのである。

 これは近隣国を下に見たわけではない。自分はたまたま日本に生れたので、物質的に不自由なく育ち、大学にも行けて三流会社のサラリーマンになれたが、もし台湾人や韓国人だったらこうはならなくなっただろうということが分かるからだ。大学に行ける経済的ゆとりはなく、軍隊に入るか屋台を引くかホームレスだっただろう。これらの国の受験競争は狂っている。自頭があってかつ精神を病むほど勉強に明け暮れて、人生で一度切りの青春時代に遊ぶこともできずいい大学に入り大企業に就職してくたびれるまで働くことでしかまともに生きる方法がない台湾や韓国が、日本より豊かだと私は思えない。台湾や韓国の友人はみな愚痴を言っている。聞く限りは受験競争で「24時間たたかえますか」が流行ったバブル期の日本人よりはるかにしんどいはずだ。

 不思議でしかない。カルロス・ゴーンが日産再建のさいにリストラしまくったことをけしからんとはっきり言えたはずの左翼が、なぜ台湾や韓国の大企業となると「最初からゴーン状態」で大儲けしていようが無条件に評価するのか。豊かな上澄みしか見えない左派は、いびつすぎる格差の固定化した社会を素晴らしいと言っているようなものである。彼らにリベラルを名乗る資格などあるのだろうか?







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