小池百合子はなぜ「東の維新」になれなかったのか
(Wiki)
2期8年の任期を全うし、再び知事選に挑む東京都の小池百合子知事。いまにいたるまで小池一強の構図にも見えるが、自身が率いた都民ファーストの会の国政進出を狙った「希望の党騒動」では第三極作りに失敗するなど、決して順風満帆ではなかった。
大阪で橋下徹府知事・市長以来の維新政治を批判する人たちは、小池氏のやっていることは「維新の劣化コピーだ」という指摘もある。大企業の再開発を重視した新自由主義的な政策しかり、マスメディアを宣伝に用いたポピュリズム戦略しかり、表向き自民党政府とケンカをしているふりをしながらしっかり連携する功名なプロレス手法など、確かに共通点だらけだ。最近では街路樹や公園の木をやたら切ったり、都庁にケバケバしいプロジェクションマッピングを投影するなど顰蹙を買っているのも維新を後追いしているように見える。
しかし小池氏は維新と違い、都内の主要首長をほとんど自分の党派で制圧して国政で頭角を現すような牙城を築くことはできなかった。こうした「隙」があるからこそ、今回の選挙戦で蓮舫氏が乗り込んで互角にたたかえている現実がある。
なぜ小池都知事は東の維新になれなかったのか。その最大の要因は東京における地域ナショナリズムの不在だと私は考える。
大阪ナショナリズムを巧みに生かした維新
(Wiki)維新のやっている政治は単純だ。「身を切る改革」と称し、自民党政府のかつての小泉・竹中構造改革路線をそのまま継承し、さらにそれを極端にしたものである。それ自体は平成時代にはありふれたものだった。筆者は神奈川県民だが、橋下氏が初めて政界進出した時、まるで横浜市の中田宏元市長の在任中の姿と一緒に見えたものだ。
しかし決定的な地盤は支持する地元住民の意識だ。維新支持層の原動力には「大阪ナショナリズム」がある。大阪はすなわち西日本最大の都市であり、西の首都にふさわしいのだというプライドと、関東に負けてたまるかという対抗意識だ。維新の政治家は、大阪弁を巧みに操り、人口では神奈川に、経済では愛知に凌駕されるに至った大阪の現状を批判し、世論を高揚させ、維新現象を起こしたのである。
特にそれに加担したのは在阪テレビである。大阪のテレビ局は東京叩きや(橋下氏以前の)大阪の行政の利権問題を報じる情報バラエティ番組を多く放送していて、そこでコメンテイターをやっていたのが橋下氏だ。テレビの「お茶の間」の感覚そのままに、東京コンプレックスを煽り、公務員の利権にメスを入れることで、維新の熱狂状態は長らく続いているのである。
炎上続きのオリンピック開会式に火消し組が!!!! pic.twitter.com/BTZRA42Kdp
— その他の坊主 (@bayashi567) July 23, 2021
だがこうしたローカルの世論や文化圏、情報空間と言うものが、東京にはない。まず東京のローカルテレビ局はと議会中継やオタクが深夜アニメを見る以外はほとんど存在感のない独立局のMXしかないし、地方出身者の集まりである以上東京的な(疑似)共同体と言うものが存在しない。東京にあるものは関東ならどこにでもあるし、全国一律のものしかない。
特に文化の不在は大きい。大阪人たちは維新の政治家が大阪弁を話すだけで親近感を沸くのだろうが、小池氏の話すきれいな標準語は東京方言ではない。かといって江戸っ子の「べらんめえ」口調で出てきても、下町では人気でも山の手や多摩方面では引かれてしまいかねない。大阪人が球場で風船を飛ばす阪神ファンなら、東京人は巨人ファンなのか、東京音頭で傘をさすヤクルトファンか。おそらく野球に無関心が都民の圧倒的多数派なはずだ。
特に大阪では、維新が吉本興業と親しくしており、吉本新喜劇のステージに維新政治家が出てくることもたびたびあるそうだが、政治家が活用できる地域文化が東京にはない。小池氏が東京五輪の開会式で「火消し」をゴリ押しした件が少し叩かれたことがあったが、町火消しの勇壮な姿に地元感を覚える東京人(下町のいわゆる「江戸っ子」ではなく)はそんなにいないだろう。
維新に利用されて消える歴代都知事
名古屋だって河村たかし市長が地域政党を作ったりしたが、東京では都知事をもってしても「東の維新」を作ることはできず、維新の器に飲まれてしまうのである。