「コスパ政治家」にまちづくりは不可能
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市営バスがなぜ存在するのかを考えたことはあるだろうか。神奈中のような民間のバス会社があるなら、市で路線バスを運営する必要はないのではないかと言えば、確かにその通りに思えるかもしれない。
だがその目的は市民の足の確保である。最寄りに鉄道駅もなく、丘陵を開いた住宅地などで、クルマがなければ生活が成り立たない場所を網羅するように市バスは走っている。民間企業は金もうけがすべてなので「儲かる地域」にしか路線を設けないが、儲からないがバスが必要不可欠な場所に市営バスを走らせる必要があるのだ。
しかし最近は、こうした本来の存在意義を無視した危うい地方政治が横行している。やれ行政改革だと、「コスパの悪い事業」を切り捨て、赤字額を減らしたことを実績扱いして自画自賛する。そういう危なっかしい人が市長や知事になった地域は、10年、20年というふうな長い目で見ると膨大な財産を失い、まちを住みづらくしている。住民は出て行って人口は減り、最終的には滅びの道を歩むことになる。多くの場合、その頃には当時の首長はとっくに政界を引退しており責任を取ることもない。
目先の利益のコスパ発想は、全国チェーン店の経営者のような安直な商売をやっている企業経営者にはいいのかもしれないが、行政にとっては最悪の発想で、最終的にはまちを滅ぼして財政破綻となり、経済合理性にもならないのである。だが、そうした政治家がポピュリズムで跋扈するのは、長い目を見て作られた仕組みの必要意義やそれを失うことによる損失を想像できない短絡的な有権者が多いからでもある。
我々有権者が、学習する必要もあるのだ。
敬老パスはなぜ必要なのか
だが自治体が敬老パスを実施しているのは、老人をえこひいきするためではない。年を取ると外に出るのがおっくうになり、そのまま寝たきりが増えてしまう。敬老パスはそうした高齢者の積極的な外出を促し、健康寿命を延ばすために貢献している。元気な老人が増えることで家族の介護負担も減り、現役世代にも恩恵がある。長い目で見れば社会運営コストの削減につながっているのだ。
(Wiki)このような存在意義はほかのあらゆる政策にも言える。最近コスパ政治家は道路の街路樹を伐採しまくっているが。街路樹は維持管理費がかかるがカネを生まず、歩道上のデットスペースになっている邪魔者だという考えだ。
しかし、街路樹があることは自動車の排ガスまみれのコンクリートジャングル化した街の景観と自然環境を良くしている。今のような夏では、木々の存在がその周辺の暑さ対策になる。街路樹のない道路だらけでは、街が熱気に包まれ、熱中症で運ばれる人だらけになってめぐりめぐって医療費を圧迫してしまう。あるいは人々が夏場の徒歩移動を避けるようになり、店屋をやっても客がこないので周辺の商店が儲からなくなる経済的損失もある。
民間企業のビジネスならば、自社の自分の事業の利益だけを考える必要があるが、行政はその地域のすべての責任を持ち、地域をいまより良くして繁栄させるために存在している。広い視野で全体の利益を考えられない政治家は統治者失格なのだ。
ゴミ箱をなくせば治安は悪化する
(Wiki)
日本と海外のまちの最大の違いがゴミ箱の有無だ。世界の殆どの国で公共の空間に自治体設置のゴミ箱があるのは当たり前。日本だけがおかしい。今、ほとんどの日本の市町村でゴミ箱が見当たらない。
昔はあった。筆者は34歳だが、物心ついたころは市の公園にもゴミ箱はよくあった記憶がある。しかし地下鉄サリン事件あたりから「テロ対策」を理由にゴミ箱を撤去するようになった。実際にはアメリカはじめテロ事件だらけの国家でもゴミ箱は当たり前にあるし、本気で事を起こそうとするテロリストならゴミ箱がなくても別の手段を企てるはずである。なのでテロ対策というのは、体のいい公共サービスのリストラのための方便でしかないのだ。
しかし、ゴミ箱をなくすことは治安を良くするだろうか。京都市では外国人観光客の増加でゴミ箱問題が深刻化している。そこら中に食べ歩きの食い散らかしなどのゴミが散乱するようになれば、公衆衛生環境は悪化する。ゴミだらけの場所には人は住みたがらなくなるし、「割れ窓理論」と一緒で秩序を失えば犯罪の温床になる。実際、治安の悪い場所ほどゴミのポイ捨てが横行しているものだ。
京都市に限らず、日本のあらゆる自治体は税金を用いてゴミ箱を多く設置するべきである。設置しても回収しきれずゴミがあふれるなら、回収頻度を高めればいい。そのために清掃員を雇えば、それは雇用対策にもなる。「ゴミ箱があるとホームレスが漁るようになる」と言う批判もあるが、因果関係が逆なのである。ホームレスだった人を自治体が雇えば、彼らの生活が安定し、むしろ路上生活者対策の費用も減らせるのである。
直接的には利益を生まない行政サービスでも、血税を用いて重点的に実施し続けることで全体の利益につながるのである。
利権ではなく利便を考える政策が必要
つまりこの手の政治家の横行は、利権の有無だけで生殺与奪が決められ、チグハグな行政になっていくことを意味する。誰とは言わないが、「身を切る改革」と称しながら、文教分野ばかりは削っておきながら、不動産利権は温存し、むしろ強化していくような地方政治家もいる。
重要なことは、それが利権ではなく利便だ。組合やら関連業者やらの影響があろうがなかろうが、市民にとって必要なものは1円も生み出さなくても全部やり続けるべきであるし、目先の「稼ぎ」になってもその金儲けの恩恵が一部の者にしか発生せず、大部分の市民が不便を被るような利権政治はあってはいけないのである。